「あなたの本」を読むということ

みなさん、本は読まれますか?

もしかすると、学生よりも社会人になってからの方がビジネスや自己啓発・アイデア発掘の参考にするために読み始める人が多いかもしれませんね。

きっとこのブログを読む人の中には、僕より何倍も本を読む人や、僕の何倍も本を好きである人がいるかもしれませんが、僕なりに「本を読むとはこういうことだ」を語っていきたいと思います。

【読むのに"労する"ものは読まない】

読む本を選ぶ時、まず僕は数ページ捲って「読みづらい」「眠くなりそう」という本は決して買わないことにしている。何故か分かるだろうか。

そんなもの読んでいても読むのに疲れるだけだからだ。読み疲れていては、本題である中身の部分を理解するのに更に時間や体力を費やすことになる。そんなことなら、自分に合った本を選んで読むべきだ。

「いやいや、それでは進歩がないのでは?」という人も居るだろう。しかし、考えてみて欲しい。皆は小学1年生の頃から、100ページ以上の絵もない注釈もない教科書など読んでいただろうか。恐らく、一部の天才を除けばそんな人は稀だろう。

大事なのは、読む本を選ぶのが個人の自由であることを最大限活かすべきだということである。本を読むのに帯の作家コメントや他の読者のレビューなんて参考にしていては、そもそも論外である。

たとえ、はじめは簡易な構成・内容の文章から入ったとしても、自らが十分に理解できるものであれば、それを次々に伝っていき、読める文体や内容の幅を広げればいい。そもそも本質的に、自分で「難しい」と思う本を読むことと自分にとって「役立つ」と思う本を読むことはイコールではない。

【本はナマモノである】

自分の読みたい本を探し終えたら、決して放置せず、すぐにでも読み始め、そして出来る限り早く読み終えた方がいい。何故なら本は「ナマモノ」であるからだ。いえ、厳密に言うと「その本を読もうとする私たちの心」がナマモノであるからだ。人の集中力には確実に限界があり、よほどマネジメントの上手な人でない限り、その集中力を一つの本に長時間絞って注ぐことは不可能だ。本は1冊であるからこそ本である。ダラダラと読み、結果章半ばで読み飽きてしまっては本を読んだとは言い難い。

だからこそ先に言った「自分に合う本」を選んでいただきたい。その基準は直感でもいい。何となくで良い。本が私たちに知識を押し付けるものでない以上、私たちはその本の中身を最大限自らに還元できるよう選び、読み上げてあげることが大切なのだ。

【一読で味わい尽くさなくてよい】

芸術的な文集や詩集でもない限り、私たちは1冊の本を一読目で味わいし尽くそうなどとは考えなくても良い。私たちが本の内容を読み咀嚼し吸収する過程において、最も大切なのは咀嚼することである。実は本を読む行為には大して大切な要素はない。強いて言うならあからさまな誤読を避けるレベル程度だ。

では、咀嚼とは何か。これは「本を読みそれを取り込んだ仮の自分と、本を読む前の自分」の間で行われる「論争」である。重要なのは咀嚼というフェーズが「本vs自分」ではなく「自分vs自分」の中のやり取りであることだ。本の一部分を熟読し解釈し尽くすことよりも、たとえ多くなくとも読み込んだ本からの情報と自らの経験や過去を照合して「自らの中で練り込む」ことの方が、本という限られた情報を自らの知恵に還元する上では、より良い手段なのだ。

そして、思い出してほしいのが「本はナマモノ」という言葉だ。本というのは不思議なことに、1度目に読む時と2度目に読む時では、私たちに与えるものがまるで違う。その原因は私たちが変わっていることに他ならない。本そのものが伝える内容は不変だが、私たちがその本から得るものは、私たちの成長や変化とともに必ず変わっていく。だからこそ、本を読む時「一読を味わう」より「次読む時の再発見」を楽しみにするのだ。

【最後に】

本と接する過程は大きく分けると

・選ぶ

・読む

・咀嚼する

・吸収する

で構成される。そして選ぶフェーズ、咀嚼するフェーズが大切だと言ってきた。では、吸収とは何だろうか。これは咀嚼の中で吐き出した自らの答えを実生活や実体験に還元できたフェーズを指す。つまり、本を読んだその後の行動でしか、私たちが最後の「吸収」というフェーズを迎えることはできないということである。面白いことだが、本を読み終えるだけでは、本を読むことの最終目的は完遂されない。大切なのは本を読む行為や読んだという事実ではなく、本を読んだ後にある自らのマインドや行動であることを私たちは理解しておかなければならない。